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AKINO FUKU

秋野不矩

秋野 不矩(あきの ふく 1908-2001)

1908年、静岡県磐田郡二俣(ふたまた)町(現:浜松市天竜区二俣町)に生誕。19歳で石井林響(いしい りんきょう)、次いで西山翠嶂(にしやま すいしょう)に師事しました。 28歳のときに1936年文展鑑展で選奨を受賞。戦後まもなく、新しい日本画の創造を目指して「創造美術」(現:創画会)の結成に参加し、官展時代から脱却した作風で西洋絵画の特質を取り入れ、人物画に新境地を開きました。 1962年、54歳のときにインドのビスバ-バラティ大学(現:タゴール国際大学)の客員教授に招かれ1年間滞在。以来、インドに魅せられ、その後もたびたび現地を訪れ、インドの風景や人々、寺院などをモチーフとした作品を制作しました。また、アフガニスタン、ネパール、カンボジア、アフリカも訪問し、作品創作のアイディアを求めました。 1991年、文化功労者顕彰。1999年、文化勲章を受章。2001年、93歳で亡くなるまで精力的に絵筆をとり続けました。

BIOGRAPHY

明治41年
(1908)

7月25日、静岡県磐田郡二俣町城山(現:浜松市天竜区二俣町)に6人兄妹の末子として生まれる。本名・ふく。

昭和2年
(1927)

千葉県の石井林響に内弟子として入門。

昭和4年
(1929)

師である林響が病に倒れ、京都の西山翠嶂塾「青甲社」に入塾。

昭和8年
(1933)

生田花朝、梶原緋佐子、三谷十糸子など大阪・京都の女流7人で「奈那久佐(七草)会」を結成。のちの「春泥社」結成へとつながる。

昭和11年
(1936)

昭和11年文展鑑査展《砂上》入選、選奨(帝展の特選と同じ)受賞。

昭和12年
(1937)

京都の女流画家の会「春泥社」を結成。

昭和13年
(1938)

第2回新文展《紅裳》出品、特選受賞。

昭和14年
(1939)

第1回個展(大阪大丸)を開催。

昭和23年
(1948)

上村松篁、広田多津、吉岡堅二、山本丘人、福田豊四郎らと共に日展を離れて「創造美術」を結成。

昭和24年
(1949)

京都市立美術専門学校助教授に就任。

昭和25年
(1950)

京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)助教授に就任。

昭和26年
(1951)

《少年群像》で、第1回上村松園賞受賞。「創造美術」と「新制作派協会」が合流、「新制作協会日本画部」となる。

昭和29年
(1954)

小倉遊亀、三岸節子と第1回女流3人展を開催。以後5回開催される。

昭和37年
(1962)

インド・シャンチニケータンのビスバ-バラティ大学(現:タゴール国際大学)に客員教授として招かれ、1年間滞在。

以後計14回インドを訪れ、インドの風土などをモチーフとした制作が主要なテーマとなる。

昭和41年
(1966)

京都市立美術大学教授となる。「新制作協会」から日本画部が退会し「創画会」を結成、会員となる。

昭和49年
(1974)

京都市立芸術大学美術学部退職、名誉教授となる。

昭和53年
(1978)

京都市文化功労者表彰。

昭和56年
(1981)

京都府美術工芸功労者表彰。

昭和58年
(1983)

天竜市(現:浜松市)名誉市民となる。

昭和60年
(1985)

京都市美術館評議員に就任。

昭和61年
(1986)

第27回毎日芸術賞受賞。

昭和63年
(1988)

第1回京都美術文化賞受賞。

平成2年
(1990)

第43回中日文化賞受賞。

平成3年
(1991)

文化功労者顕彰。

平成5年
(1993)

第25回日本芸術大賞受賞。

平成8年
(1996)

京都府あけぼの賞受賞。

平成10年
(1998)

天竜市立秋野不矩美術館(現:浜松市秋野不矩美術館)開館。

平成11年
(1999)

第17回京都府文化賞特別功労賞受賞。文化勲章受章。

平成13年
(2001)

10月11日、逝去(享年93歳)。